※大事なことなので先に書きます。猫ちゃんは無事です。やさしい人のおうちで安心して暮らしています。
布団を干すためにベランダに出て、隣のマンションが視界に入るたびに、一年前のことを思い出して少しだけ口角が上がってしまう。へんてこな邂逅と、その場でへたり込みそうになるほど、ほっとした日の話。
その日は朝から暑かった。空気の入れ替えのために窓を開けると、もわっと湯のような空気に包み込まれたのをよく覚えている。
8時すこし前、窓の外から途切れとぎれに声が聞こえた。泣き疲れた赤ちゃんのような、無条件に助けたくなるような、か細い泣き声。
ベランダに出て、辺りを見回し耳をすましたけれど、それきり聞こえることがなく、網戸の外を気にかけながら、落ち着かない気持ちで朝食を食べた。
おぼろげな声を探しながら、ゴミを捨てに行くと、また声が聞こえる。さっきよりもはっきりと。間違いない、これは猫の声だ。どこかで猫が鳴いている。助けを求めるような鳴き声が、細く長く響いていた。駐車場、エントランス。小走りであちこち見回して、声の出所を探した。分かった、上だ。隣のマンションの上の階から聞こえる。
エレベーターが降りて来る間の、ほんの数秒も待てない気持ちで自宅へ戻り、眼鏡をかけてベランダに出て、隣のマンションを血まなこで注視した。私は視力がさほど良くないけれど、その時はとにかく必死だった。
「にゃーおう……にゃーおう…」不安げな鳴き声は続いている。一階一階、順に焼ききれんばかりの眼光でたどり、ついに見つけた。なんと、マンションの高層階の廊下に猫がいた。うすい灰色のしましまが、廊下を右往左往しているのが見える。なんてこと!飼い主さんが間違えて締め出してしまったんだろうか。
隣のマンションの住居のドアは、我が家のベランダに向き合う形で、歯のようにぴしっと立ち並んでいたけれど、この事態に気がついた様子の住人は見つけられなかった。どうしよう、なんて考えるまでもなかった。そこからの自分の行動は早かった。
水とご飯とちゅーる、それから念のためのキャリーバッグを背負って、すぐに隣のマンションへ駆け出した。初老の優しそうな管理人さんは、血相変えた様子の私にびっくりしていた。
「隣のマンションの者なのですが、こちらの建物の廊下で猫が鳴いているのが見えたんです。◯階です。お願いします、助けてあげてください…!」
呼吸で自分の顔が、鋭く温まるのを感じながらそう言うと、驚きながらも管理人さんは、私とともに猫が居る階に付き添ってくれた。部外者なのに、マンションに入ることを許してくれた。
見つけた階に到着すると、なんと猫の姿はどこにもなかった。見たところ隠れられる場所もない、まっすぐな廊下だというのに。「あれ…?居ませんね…?」どうしよう、どこにも居ない。念のため、上下二階ずつも見させてもらったけれど、猫は見つからなかった。手すりから身を乗り出して、おそるおそる下を見ても、猫の影は見当たらなかった。
70代くらいの管理人さんは「気のせいじゃないですか」とは言わなかった。私の見間違いや、狂言だと疑ったりせず、親身に探してくれた。もうすぐ掃除をする時間なので、そのとき声が聞こえないか気をつけてみますね、と言ってくれた。連絡先を渡すだけ渡して、帰るほかなかった。自分は完全な部外者なので、それ以上留まることは出来なかった。
家に着いても落ち着かない。姿が消えてしまった猫のことが気になって気になって仕方がなかった。仕事をしながらもベランダをちらちら眺め、猫が居ないか何度もサンダルを履き直しては、部屋に戻ることを繰り返していた。細い鳴き声が聞こえた気がしても、姿が見えなかった。
私が家を出て、隣のマンションのエレベーターで上がる間に無事におうちに帰れたのならいいけれど、そうじゃなかったら……。不安でそわそわしながら過ごしていると、夕方になって電話がかかってきた。
「猫、居ました!!!」
はじけるようにキャリーバッグを持って、私は駆け出した。
隣のマンションに到着すると、一階のエントランスで、管理人さんが出迎えてくれた。
「居ました。おっしゃった通りの猫でした。灰色の縞の……」
手でかぼちゃくらいのサイズを示しながらそう言った。
「そうです…!ご連絡ありがとうございます。あの、猫ちゃんはどこに居たんでしょうか」
「えーと。あれは何て言うのかな。見てもらった方が早いですかね…」
2人で話しながらエレベーターに乗り込んだ。例の階には水色の作業服を着たおじさんが居て、廊下の突き当たりの消火栓の下を覗き込んでいた。
「猫を見つけてくださった、隣のマンションの方です。あ、こちらはこのマンションの管理会社の者で…」
管理人さんが、私と作業服の方を紹介しながら赤い消火栓の前にしゃがみ込んだ。
「いやあ、お世話かけました。猫が居たって聞きまして、まさかと思って。一応確認のために来てみたんですが。ここに隠れていたみたいですね」
作業服のおじさんは、消火栓の下から目線を動かさずにそう言った。猫を見る目が優しかった。
私も2人と同じように体勢を低くして見ると、そこにむくむくの猫が丸くなっていた。大人の猫で、首輪も付けている。お顔が横に広い、サバトラ模様の猫さんだ。さっき廊下に見えたしましまの猫に間違いなかった。知らない人間の足音にびっくりして、逃げるように潜り込んだようだ。
「おそらく、ここのお宅の猫ちゃんだろうと近所の方からお話がありました。今はちょっと、お留守のようなんですが……」と管理人さんがすぐ側のドアを手で示す。よかった。どこのおうちの猫か、見当が付いたんだ。
初対面の者同志が、床に這いつくばってにこにこしているさまは奇妙極まりなかったと思うが、ひとまず無事な姿を確認できたことに私はとてもほっとしていた。ずっと緊張していたので、足の力が抜けて、すこしだけ目眩がした。
出来れば、飼い主の方が帰ってくるまで、背負ってきたキャリーバッグの中に保護できればと思った。手を伸ばしてみると「アーーーオウ…」と可哀想な程にけばけばの姿になり、フーッと威嚇されてしまった。無理やりここから引っ張り出すことは、この猫さんのストレスになりそうだった。
でもせめて、と思って背負っていたキャリーバッグを下ろしながら、お水とごはんだけでもあげたい旨を伝えた。この猫は私が見つけた時間から少なくとも8時間近く廊下で飲まず食わずの筈で、脱水にならないか心配だった。
ペットボトルを切った容器に水を注ぎ、プリンのカップにドライフードをすこしだけ入れた。地域猫を見つけたとき用の、お世話セットが役に立った。チャオちゅーるのパッケージを見せると、管理会社の方が慣れた手つきで封を切って与えてくれた。これには水分も含まれているので、簡易栄養食として丁度いいと。
怯えながら固まっていた猫が、おずおず口を近づけた。ちゃっちゃっちゃっちゃっと微かな音を立てて食べる様子を、目を細めて眺めるおじさん2人を見ていた。
「ほほ、可愛いなあ。」
「おお、食べる食べる。そうかそうか。お腹減ってたなあ。気の毒に」
となごやかな空気を出したのも束の間、
「いやあ、困ったね。うちのマンション、ペット禁止だから……」
そう言われ、目の前の暖かい風景に亀裂が入ったような気持ちになった。
「えっ それじゃこの猫さんは…」
保健所、という言葉が喉元まで浮かび、声にならなかった。
私は、つい猫を人生の優先順位の1番にしてしまうけれど、世の中には猫が苦手な人も、アレルギーがある人もいる。折り合いを付けて共生していくための建物内のルールは、守らねばならないことは自覚していた。
「あー。捕まえてどうとかは、しないしない。飼い主がうちのマンションの人なら、返します。でもねえ、こっちも立場があるもんで、ペットOKとは言えないんですねえ……」
「猫を飼っていることで……その、飼い主さんは退去勧告とかされるんですか?」
「よっぽどで無い限りはしません。うち分譲だからね。それにまあ言っちゃなんだけど、家から絶対に外に出さないで飼ってくれるなら……そういうお宅、他にもあるんです。でも管理側からOKとは言えないのよ」
「なるほど…。こっそり飼ってくれるなら……。でもそれをマンション側から伝えることは出来ないと。」
「駄目なんですねえ。一応規則だから。」
奇妙な状況だった。管理者の2人に混じって部外者の私がなぜかいる。たぶん、本来は私をここに呼ぶ必要はなかったはずだ。「では、後はこっちでやりますんで」で済む話だった。でも、私がちぎれるように心配していたので、わざわざ呼んでくれたのだろう。
自分がここに居る意味を考えた。何か力になれないだろうか。確かにペット不可のマンションで動物を飼うことはいけないことだ。でも今確かにここに困っている猫がいて、それをどうにかしてあげたいことは、疑いようもなくこの場に居る者の総意に思えた。無事に猫がおうちに帰れること。尚且つ飼い主の方が安心して、これからの行動を選べるようにしたい。
「すみません。この件、一旦私に預けてもらえませんでしょうか」
自分でも「私は誰なんだ」と思いながら、でもそう言わずには居られなかった。
「と、言いますと?」
2人もぽかんとしている。当たり前だ。弁護士でもなんでもない自分が何を言ってるのだと思うが、もうどうしようもない。乗り掛かった船だ。
「私は、通りすがりの第三者です。私の意思で飼い主の方に、何かをお伝えしたとしても、規則違反にはならないですよね…?」
「それは、その、うん。我々があなたを止めることはできない」
「ですね。たまたま善意で来てくださっただけの方ですし」
私の意図を察した管理側の方々は、すこし嬉しそうにも見えた。お互いに名言を避けた茶番のようなやりとりが可笑しい。
「私はお節介なので、たまたま聞こえてきた話をすこしばかり伝えるかもしれないですが……。」
「ぜひ、そうしてくださいとは言えません。でも、あなたの親切を止めることはできない。助かるっちゃ助かります。本音を言えば。」
「ありがとうございます。飼い主さん宛にポストにお手紙を入れたいと思うので、できたら紙とペンを貸していただけますか。」
「はい!管理室に行きましょう。」
管理人さんは満面の笑みで言った。場は、謎の連帯感に包まれていた。「実は、うちでも猫を飼ってるんですよ。」と作業服のおじさんが言った。
「東日本大震災のときの保護猫です。足三本の子もいて。なんであんなに可愛いんでしょうね。私も猫が好きなので。助かりました正直」
作業服のおじさんは、こめかみの辺りを掻きながら、そう言った。うちにも猫がいるんです。と言うと「分かってましたよそれは。あなたの服、猫の毛だらけだもの」と笑った。
管理室の内側(!)に入れてもらって、緑色のデスクマットの机の上で私は大急ぎで手紙を書いた。
あなたの家の猫が、どうやら締め出されて廊下に出てしまっていること。今は消火栓の下に隠れていること。水とちゅーるとごはんとおやつの差し入れをしたこと。このことを管理人さんたちは知っているけれど、あなたを追い出そうとしたり、猫を取り上げたりしようとしていないこと。管理の方々は「猫を飼ってもいいか」と言われたら「駄目だ」と言うしかないこと。私は隣のマンションに住んでいること。あなたの力になりたいこと。
最後に自分の名字を添えた。消火栓の下で不安げに丸まっている猫を、迎えが来るまでずっと見守っていたかったけれど、他の住人の方にとって私は不審者以外の何者でもないので、あとは管理人さんにお願いした。廊下から外階段に繋がるガラス戸を閉めて、猫がうっかり他の階に行ったりしないように張り紙をしてくれるとのことだった。その張り紙もついでに書かせてもらった。
夕飯の用意をしながらも、ちょくちょくベランダから窓の外を眺めていた。ずっと猫の無事を祈っていた。管理の人たちもそうだろうと思った。少なくとも、心細い鳴き声はもう聞こえなかった。
次の日の夕方に来客があった。インターホンに出て、「突然すみません。あの、隣のマンションの。猫の飼い主です」と聞こえたとき、ほとんど泣きそうになった。名字と、『隣のマンション』という手紙の中の言葉から、郵便ポストを頼りに訪ねてくれたらしい。
ドアを開けるとぱりっとしたスーツを着た、壮年の女性だった。何度も、何度もお礼を言われた。「神かと思いました」と言われたのは、人生で後にも先にもこれっきりだろう。とにかく無事に猫がおうちに帰れたことを聞き、それが何より嬉しかった。あの日、猫さんはどんなにか心細かっただろう。飼い主の方も、ポストの中の手紙を見て、どんなにかびっくりしただろう。
夏場の部屋の中、留守中に猫が自然な風を浴びられるように、窓を網戸にしていたらしい。猫が自分でそれを開けて、ベランダに出てしまい、他所の家との仕切り版を超えて、ぐるりと回り廊下に来てしまったのだろうと。「気をつけます、絶対に」と言ってくださった。
私は、余計なことかもしれないけれど、何か本当に困るようなことがあれば、うちで猫さんを預かることも出来ること、うちのマンションは古いけれどペットが飼えることなどを伝えた。昔はペット不可だったらしいけれど、管理組合で相談の上、ペットOKになったという経緯も。
猫さんとどうぞ幸せにおすごしください。と目をみて言った。
去り際に「これ、大したものではないんですが、よろしければ」
と、デパートの袋が差し出された。いかにも贈答品らしい包みにはっとした。宝石のような色とりどりの、ゼリー菓子だとわかった。猫がどんなにか大切で、とっておきの美しいお菓子を選んでくださったんだろう。その気持ちがうれしかった。
次の日電話で、隣のマンションに任務完了の報告をした。飼い主さんが家に来たことと、「絶対に気をつけます」とおっしゃっていた言葉も。それ以上は何も言わなかった。言わなくても伝わる気配を感じたし、何も聞かれなかった。管理人さんの「承知しました」という声が弾むようで、「よかった。本当によかった」という言葉に聞こえた。
一年が経ち、まるで全部がまぼろしのように思えても、うやうやしいお菓子の缶をみるたびに本当のことだったと思い出す。知らない者同士が、廊下に這いつくばって、並んで猫を眺めた日。
あの日の猫さんと、ひととき共にした方々が今もご健康に暮らしていますように。
illustration:itagaki yusuke